さて!学生さんは夏休みボケも取れたころでしょうか?戦国祭りメンバーはこれから大詰め!ということで大忙し!って感じです。私は祭りの前のこういう雰囲気も好きだったりしますが、やっぱり楽しいのは本番ですよね!
では、その本番に向けて今回も長くなる予感バッシバシしてますが、行きます!
小話じゃねぇよ!という突っ込みはしないでくれるとすごくうれしいです!すごく!!
皆さんの中には、
忍者といえば戦国時代!と言うようなイメージがありませんか?
しかし実は前回言ったように忍者の歴史は古く、楠公(なんこう)さんで有名な
楠正成が始祖とされる「楠不伝」または「楠流」は南木(なんき・なんぼく)流の忍術なんてのも存在していて、忍術の奥義書とされる「萬川集海」に記されているそうです。
千早城戦や赤坂城篭城戦では、岩や木、沸騰したお湯なんかを落とし、敵がひるんだ隙に矢を射掛けたり、山伏から情報を入手したりと奇襲、攪乱作戦を多用しており、これらは「遁甲」、忍術であるとされています。
しかし忍者って呼ばれ始めたのはつい最近、
戦後の事だそうです。戦前では忍び使い、戦後では白土三平先生や司馬遼太郎先生達の作品を通して、
「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼び方が定着しました。
では実際なんと呼ばれていたのか。本当に全国色々ありますが、代表的なのを言えば、
「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」・・・・これは今でも言う
「スッパ抜き」の語源とも言われています。昔の武将もスキャンダルとかあったんでしょうか・・・。
あとは字が違いますが、「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」、「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」、「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「草の者(くさのもの)」、「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「かまり」なんかがあります。
他にも
伊賀者とおんなじ意味の
「伊賀衆」甲賀者と同じ意味の
「伊賀衆」。
上杉家の
「軒猿」・・・・今大河でも熱い上杉家、やっぱり暗躍していたんでしょうか?
伊達家の
「黒脛巾組」・・・・何故かこの人らがヤンキーにしか思えない私は末期でしょうか。
幕府の
「お庭方」・・・お庭番、といえば時代劇や「るろうに剣心」とかでもおなじみですよね。
加賀前田家の
「偸組(ぬすみぐみ)」・・・もうちょっと名前なかったのかなと思う。誰か突っ込まなかったのか突っ込めなかったのか。
尼子家の
「鉢屋衆」・・・尼子家といえば、真田家の真田十勇士の元になった尼子十勇士ですよね。
北条家の
「風魔党」・・・風魔小太郎は有名ですよね。ゲームとか小説で引っ張りだこの彼。
毛利家の
「座頭衆」・・・毛利って言えばやっぱり謀略のイメージがありますし、忍者とのゆかりも深かったんでしょうか?名前的には座頭市っぽい。
多いよ!とか言わないでください
多すぎて私も涙目ですから。もうなんて呼んでいいのかわからないのでここでは忍者で行きます!
さてさてそれでは本格的に忍者の話をば。
忍者のメジャーともいえる
「伊賀」と
「甲賀」って仲悪いイメージないですか?
実際の創作の中でも仲が悪いとして多く扱われていますが・・・同業者で仕事上のライバルってだけじゃなくどこか因縁めいたものがある感じですよね。
現在のようにはっきりとした伊賀VS甲賀。というような「見っけたら取りあえず敵!」というノリではなかったようです。こういうはっきりとした
対立。講談やヒーローもので言う、正義側、悪側のような関係は、講談や読み物の本で築き上げられたもののようです。
しかし物事にはやはり原因があるわけで・・・その原因のいくらかに、戦国武将に関わっているとの事でしたので、ここで紹介させてもらいたいと思います。
本来伊賀と甲賀はご近所さん。忍者というのは元々が普段は農業をしている地侍ですから、この二つの里は逆に近すぎてそこまで仲が険悪だと逆に動き辛いくらいでしょう。
では何故対立関係におかれるようになったのか・・・・?
むしろ伊賀甲賀っていうけどぶっちゃけどんだけの差があるんじゃい。と、声を台にして叫びたい人、挙手。
居なくても続けます、テストには出ません!!!
が、歴史の授業がほんのちょびっと面白くなる・・・・かもしれない。
先ほど言ったとおり、伊
斜体文賀と甲賀はご近所さんな訳でして、似ているのはごく自然な事なんです。
けれどもふたをあけてあらびっくり、結構差が出てきているようです。同じ学校でもクラスごとにカラーがある感じなんでしょうかね?
全部が全部、絶対にそうだった!と言い切れない部分はありますが(だって謎多き忍者ですから!)
伊賀忍者は一般的に、傭兵集団のようであり契約重視、契約以上は関わりません。というような、どっかの
スーパー派遣社員みたいなスタンスだったようです。
幼い頃から忍びとしての厳しい訓練を受けていたようで・・・胸に笠当てて落とさずできるだけ長く全力ダッシュとか、運動神経皆無な私には考えただけで息切れが・・・体育の授業とかであったら死ねる!
このように幼い頃から厳しく、そして後々説明する
『天正伊賀の乱』という事件にも関わってくるのですが、伊賀では裏切り者・・・いわば抜け忍は厳しく取り締まられていたそうです。抜忍成敗、いかなる事があっても裏切りや脱走は許さない。と言う感じのまさに
「厳しい忍者」のイメージですね。
伊賀では一応
「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の自治共同体があったんですが、身分がきっちり分かれていて、中でも
「上忍三家」と呼ばれる
服部・百地・藤林の三氏によってまとめられていたといわれています。
この中の服部があの
服部半蔵の
服部家ですね。一般的に言う服部半蔵さんは服部半蔵正成さんで、実は服部家出身ではありますが伊賀の生まれではなかったりします。
この服部さん、徳川家と深いかかわりがあるのは有名・・・というか徳川家康といったら服部半蔵。みたいなイメージないですか?
上で言った
『天正伊賀の乱』で、
織田信長によって伊賀の地は攻められ、伊賀忍者は徹底的に処刑されていきます。
ですが全員を処刑できるわけもなく・・・全国に散った伊賀衆たちは、「本能寺の変」で織田信長が死んだと知るとでてくると言う具合です。「信長ざまぁ!」とかって言う感じだったんでしょうか、それはともかく。
本能寺の変が起こったとき、徳川家康は明智光秀から逃れるために、少ない人数で堺から
伊賀路を通って三河の岡崎城に帰ると言う、世に言う
「神君伊賀越え」を行ったわけですが、そのとき家康を助けたのが、昔から使っていた伊賀と甲賀の忍者たち。服部正成などが護衛しながら無事に何とか帰りついたといわれています。
少人数だといっても家康側ものすごい
豪華メンバーだったんですが(本多忠勝とか酒井忠次、石川数正 など)皆まさか本能寺の変が起こるなんて思ってないので平服だし、向こうは軍ですから、敵討ちもできない。ってんで帰ろうとしたんですが、途中明智側に見つかるかもしれないし、土民に襲われるかもしれない危険な旅だった訳ですね。
同行してた
穴山梅雪さんなんかは土民に討ち取られてしまったわけですし・・・無双でよく伊賀越えステージでこの人討たれたなぁ・・・。
んで、その伊賀越えの功績が認められて江戸幕府が開かれた時、服部正成は取り立てられ、伊賀忍者は
伊賀組同心として幕府に召抱えられたわけです。
一旦かなりの大打撃を受けましたが、最終的にはついた人が大成功したと言う感じでしょうか。
その後は大奥の警護・普請場の巡視・西の丸非常口の山里門警備・甲州口の警護を務めていたようです。
では
甲賀はどうなのか。
甲賀衆は、普段は農業や行商などをして各地の動向を探り、指令が出れば戦に赴くといった具合で、流派的には薬の扱いに特化していたとのことです。
現在でもその名残なのか、滋賀県甲賀市には製薬会社が多く存在しているとか。
甲賀衆は
六角氏の下についていましたが、
「惣」(そう)という自治組織を形成して、自分達の問題を多数決によって決定・運営する
合議制をとっていました。
誰が多数決すんの?と言う話ですが、甲賀には
「甲賀五十三家」というものがありまして、その中から
10家を選び多数決で全体の運営をきめたり、各家から一名ずつ選出し、氏族ごとの行動をきめていたといわれています。議会みたいですよね。
この五十三家というのは、九代目将軍足利義尚の時代、幕府の力が衰えだしたとき、近江を支配していた六角氏、六角高頼は幕府の命令を聞かず、将軍を軽視した行動を取っていました。足利幕臣の領地取ろうとしたりなんか。
これをどうにかしようと、将軍は長享の乱を起こし、
鈎の陣と呼ばれる戦いで高頼を討とうとします。高頼は甲賀城を落とされるなどしますが、高頼に味方した土侍たちに放火や奇襲などゲリラ戦法を展開させ散々に幕府軍を苦しめ、義尚が死んだため鈎の陣が終了したときには六角氏は生き残っていました。
このときの戦いに参加したのが甲賀五十三家、その中でも六角氏から感状をもらった家を
甲賀二十一家といいました。
しかし時代は移り、六角氏もその勢いを失っていきます。その後甲賀の地は織田信長の支配下に入り、さらにその後豊臣秀吉に統治されます。
そうなると甲賀衆、甲賀武士達は
徳川側の監視を主な任務に命じられていました。
しかし
徳川家康の伊賀越えを手伝ったり、
小牧・長久手の戦いで徳川方を助けたりして秀吉の反感を買い知行とりあげになったりして徳川に近づいていたようです。
関ヶ原の戦い以降は山岡景友の下につき、鉄砲同心として召し抱えられたり、家康・秀忠・家光から関東への移住の勧められましたが、故郷を離れずそこに住み続ける事を選び、生国の郷士として没落しました。
尾張・高槻・岸和田などの藩では、それを惜しんで甲賀在住のままで忍者・鉄砲同心に召し抱えられたようです。
また、
甲賀忍者には上忍はなくて、最高位は中忍だったそうです。
これからの違いから、どちらかといえば伊賀=徳川、甲賀=豊臣というのが定着し、講談などで使われたために定着してしまったようです。
徳川の監視を甲賀が、伊賀が徳川についていたときなんかは、代理戦争の役も果たしていたのではないでしょうか?
そういえば創作ですが、真田十勇士の猿飛佐助は甲賀、霧隠才蔵は伊賀でしたね。抜忍才蔵!
そしてここで解説!
**天正伊賀の乱**上にも書きましたが、これは伊賀が
大打撃を受けた事件です。
端的にいってしまえば織田信長による伊賀衆虐殺なんですが、これには織田信長の息子が大きく関わってきます。
織田信長の次男、織田信雄は
北畠具房の養嗣子になって家督を相続しました。しかし義父である北畠具教や北畠一門を抹殺し、北畠勢力を駆逐・・・のっとっちゃったわけですね。そんな信雄さん、伊賀忍者の一人・下山甲斐の密告で伊賀の団結力が衰えだしたことを知り、国境にあった丸山城を修築して伊賀を侵略しようとしました。
そもそもの発端は伊賀の
抜け忍だったわけですね。
しかし信雄の行動は伊賀の人々の耳に届き、信雄達が体制を整える前に伊賀の忍者達の奇襲によって信雄は
大敗を喫してしまいます。
これが
第一次伊賀の乱といわれています。
この結果に激怒した織田信長は、勝手に軍を動かして、しかも負けて帰ってきた信雄に激怒して「親子の縁切るぞ!」と脅して叱る一方、2年後には自らおよそ
四万の兵を率いて伊賀に攻め込みました。
これを
第二次天正伊賀の乱といいます。
伊賀の人々はすぐに応戦しますが、ご近所さんで協力関係だった甲賀衆の忍者の一人・多羅尾光俊の手引きで伊賀忍者からさらに二人の離反者が発生。
織田方の蒲生氏郷の道案内をしたために伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりました。
この後、伊賀忍者は追われる事となり、織田信長が死ぬそのときまで全国に散って息を潜めていたと言うわけです。
や・・・っと終わった!伊賀と甲賀が!!実はまだまだ忍者は置くが深く、語りたいことが山ほどあるのですが・・・・真田十勇士のモデルとか、忍者の技とか全国の忍びとか!!!
しかし今の段階でものすごい長いので、また別の機会に!
次は戦国クッキングなんて企画してますよ!兵糧丸が作りたくて・・・
ではでは、次回にお目見えするそのときまで。
失礼いたしました~。
ドグ